ブータンで内視鏡医として2年間活動された阪口昭先生の奮闘記をお届けします。第一回はブータン行きを決意されるまでのお話です。これからシリーズで掲載して行きます。お楽しみに !
1)定年:
初めて海外に行ったのは、天安門事件の前年1988年の中国だった。文化の違いを肌で感じた。その後職場(和歌山労災病院消化器内科)にアフリカで働く日本人の健康診断の臨時の仕事の応募があり、手を挙げたら採用され、約1ヶ月かけて、エジプト、アルジェリア、ナイジェリア、ケニアのアフリカ4国を廻った。初めてのヨーロッパ・アフリカ文化との出会いであった。
40才を過ぎた頃、多忙な毎日に将来を見いだせず、12年間働いた職場を辞めて、大阪南港から鑑真号で中国に行った。言葉も分からないまま、和歌山医大と姉妹校であった山東医科大学に流れ着き、中国医学の勉強をすることになった。特にウイルス性肝炎の治療に苦労していたことや、自分もC型肝炎患者であったこともあり、漢方薬の抗ウイルス効果に興味を持ったが、西洋医学との理論や検証の違いについていけず、一年で断念した。
帰国後、公立診療所(和歌山市立杭ノ瀬診療所)に一般内科医として就職した。在宅看取りや往診治療も経験したが、周囲に多くの開業医が生まれ、公立診療所の存在意義は薄れたため、勤続10年で退職した。同時期に肝炎が悪化し、3度目のインターフェロン治療を1年間施行し、やっと陰性となった。
その頃、地方の医療崩壊、特に医師不足が大きく取り上げられており、55才で地方病院(新宮市立医療センター内科)に就職、再び消化器疾患を担当することとなった。10年間の間に、内視鏡治療は画期的に進歩していて、ESD(内視鏡的粘膜下層剥離術)は標準治療となっていた。必要にかられ55才からESDを始めた。あれだけ苦労したC型肝炎も内服だけで殆ど治癒可能となった。そして65才、定年がやってきた。(次回に続く)
左上より、1) 1年目のブータンでの労働ビザ、2) ブータン首都ティンプーの国立病院 Jigme Dorji Wangchuck National Referral 病院(JDWNR)10月は一番気候の良い頃です(2019年)3)院内表示は英語とゾンカ語の二重表記(だと思われます)
左下より、1)内視鏡はOlympus製ではあったが、日本では見たことがない機種。2021年2月にPentax製に変更となった。2)高周波発生装置、ERBEかと思ったが、違いました。
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