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押味和夫先生インタビュー(名医をめざしてーその4)

押味和夫先生、E mail インタビュー、今回は先生ご自身の米国留学後の日本での活動について伺います。

Q: 話は戻りますが、打倒米国の意思を秘めて帰国されてからどのように働かれましたか?

当時はまだがんの発症機序は全くといっていいほど分かっていませんでした。でも、発症機序が分からなくても治ればいいと思い、免疫学の黎明期だったせいもあって、がんの免疫療法を研究したいと思うようになりました。

1974年に帰国後、米国留学から帰国なさったばかりの狩野庄吾先生に師事して、自治医大アレルギー膠原病科で膠原病の患者を診ながら、マウスを使ってがん細胞に特異的なキラーT細胞を誘導する研究を始めました。なかなか上手い具合に目指すキラーT細胞が誘導できずに困っていましたら、狩野先生が東京の研究会から戻り、NK(natural killer)という細胞があるらしい、と北欧から来た誰かの講演内容を詳しく紹介してくださいました。早速、見ず知らずのカロリンスカ研究所のG. Klein先生に手紙を書き、ヒトとマウスのそれぞれのNK細胞に感受性が高いK562とYAC-1という細胞株を送っていただきました。これが、その後ずっと続いたNK細胞との出会いです。最初は正常NK細胞を、その後はNKの腫瘍を研究しました。

Q: ということはアメリカでやった臨床から少し離れて研究主体の仕事に入られたということでしょうか?

そうですね、でもやはり、がん、とくに造血器腫瘍の臨床を中心に勉強したかったので、1980年に東京女子医大血液内科に移り、溝口秀昭先生のご指導で血液の臨床と勉強を始めました。と同時に、インターフェロンやIL-2などで活性化したキラー細胞とかbispecific antibodyが患者の白血病細胞やリンパ腫細胞を殺す研究をしていました。論文を投稿するとき溝口先生は、「100点満点の論文を書きなさい」とおっしゃいました。100点満点の論文を書くには、研究方法も結果の考察も、さらには英文そのものも完璧でなくてはなりません。大変でしたがその後何とかやってこられたのは、先生の厳しいご指導のお蔭でした。

Q: その後、順天堂大学に移られたのは?

 順天堂大学に血液内科が新設され、1994年に初代教授として赴任しました。少数の医局員が全員一丸となって診療に当たりましたが、あまりにも忙しくてみんなの顔が引きつっていました。これじゃ若者は入局してこない、もっと楽しくやっているような振りをしようよ、と医局員を誘って海釣りに行くことにしました。子供の頃、川や沼でよく釣りをした思い出が蘇ったのです。それからの医局のモットーは、「よく遊び、よく学べ」になりました。医局旅行で軽井沢へ行ったとき、旅館の大広間に、内村鑑三が書いた「よく遊び、よく学べ」という額が飾ってありました。これを見た私は、ニヤリ、我が意を得たり、でした。

Q: 遊びも仕事の活力を維持するためには重要だということですね?

ある出会いから、毎年7月末になると、1週間アラスカのロッジに泊まりながらキーナイ川で鮭を釣ったり、山奥の川をゴムボートで下りテントに泊まりながら釣りをするのが最高の楽しみになりました。アラスカがあるから、忙しい仕事も続けられました。いよいよ本物の釣りキチになりました。

続きます。

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